追悼文「小谷悦司先生を偲ぶ」

小谷悦司先生を偲ぶ

杉 本 勝 徳

 日本弁理士会の「風雲児」小谷悦司先生が83才で逝った。ここに思い出すままに先生のことを述べて追悼供養としたい。

 私が小谷悦司先生と知り合ったのは昭和46年(1971年)の秋である。その年の9月に私が勤務していた会社(ニチバン)を退職して、先生が関西分校の校長を務められていた「日本パテントアカデミー」に入学した時だ。

 当時のパテントアカデミーには錚々たる講師弁理士が名前を連ねていた。小谷悦司先生をはじめ、植木久一先生、清水久義先生、倉内義朗先生、藤本昇先生、畑岸義夫先生等々の他に当時の東京高裁知財部の名裁判官三宅正雄判事もおられた。

 9月に入学して翌年の5月に私の父(弁理士)と小谷悦司先生が電車の中で会ったときに父が「うちの息子どうでっしゃろ」と尋ねたところ「今年ひょっとしたら・・」と言う会話があったと聞いた。その他にも答練の結果で「今年ひょっとしたら」と仰って戴いた先生もおられた。その言葉通りその年に合格して弁理士の仲間入りを果たした後、2世と言うこともあって弁理士会(当時の名称)の関西の任意団体「近畿弁理士クラブ」に直ぐ誘われて雑用をするようになった。

 昭和56年頃から「近畿に支部を」と言いだしたのが小谷悦司先生と今年亡くなられた三枝英二先生、同じく今年亡くなられた岸本瑛之助先生、それに私の4人であった。4年間に渡って近畿弁理士クラブの機関誌を通じて支部の必要性を猛アピールした。特に小谷悦司先生は論理的に支部設立の必要性を広く広報活動を重ねられた。しかし、「クラブがあるのに何で支部や」」屋上屋になるやろ」と言う反対もあって、思うように近畿弁理士クラブ会員の賛同をなかなか得られなかった。その一方で公認会計士会の組織が本部支部の関係にあったので、弁理士会に当て嵌まるのではないかと岸本先生が連日連夜会則制定に奔走された。我々4人のほかにも賛同者10人程度が集まって毎週支部設立に向かって会合を持った。

 広報活動もピークに達した頃に、日本弁理士クラブから趣旨を理解するという報告を受けて急に大きく設立に向けて動きだした。そして昭和59年の弁理士会総会で認められ、翌昭和60年の総会(会長鈴木正次先生)で近畿支部の設立が決まった。

 ところが弁理士は全国に散在しており、近畿支部会員以外は本部所属のままで、地域ごとの独自の活動が出来ないままであった。当時は地域ごとに北海道委員会、東北委員会、東海委員会、北陸委員会、四国委員会、九州委員会があり、これを何とか支部に昇格させようという運動を前記弁理士の先生が動いた。そして全国に支部が出来る前に「東海支部」が近畿支部設立の8年後に設立された。更にそれから12年の年数を費やして、遂に平成18年(2006年)に全国支部化が実現した。

 近畿支部及び全国支部化に最も熱意を注がれて身命を賭して頑張られたのが小谷悦司先生だ。ここに小谷悦司先生の生前の日本弁理士会への多大なる貢献に敬意を表して本文を捧げたい。合掌。